もうスウェットなんて着ない

2024年もはや1ヶ月が終わろうとしている。抱負というにはたいそうだが、今年はスウェットと呼ばれるものを着ないことにしている。たとえ家だろうと、寝る時だろうとスウェットは着ない。より正確に言えば、「部屋着としてのスウェットを着ない」ということになる。

かれこれ四半世紀、「飽き」と戦っているような気がする。思い起こせば部活も3ヶ月以上続かなかったし、趣味をもとめて購入した道具は、ほとんど新品のまま残っている。部屋中に読了しないままひっくり返っている本がいくつもある。逆説的だが、なにかマ新しいことをやる、ということだけは飽きずに続けている。

モノとの付き合いにおいて、この飽きというのはより顕著にあらわれる。もちろん飽きるからこそ楽しい側面もある(飽きないと次のものを買えないからね)。好きな音楽を聴き過ぎて飽きる、ということは起こりうるが、モノの場合はその逆で、使わないことで飽きてしまう、というのが個人的な意見である。つまり飽きないためには、いかに定期的な接触を続けていけるかが鍵となる。この定期的な接触を妨害するのが、「部屋着」の存在である。

部屋着は危険である。部屋着というのは、食品で言えばカビのようなものだ。冷蔵庫の隅にある、使いきれなかった食材。あと1日くらい保つだろうという油断。翌日冷蔵庫を開けた時、その食材を白いカビが覆っている。これとおんなじことがクローゼットの中でも起こっている。今日は特に予定はない。行くとしても近所のスーパーマーケットくらいだ。簡単に部屋の掃除をして、あとはネトフリを見るんだ。スウェットのセットアップでカウチポテト。最高じゃないか!いや、これはカビの繁殖である。これからの私は、これを断固拒絶したい。たとえ部屋でネトフリに没入するときも、アルパカのニットにホワイトデニムを合わせ、紅茶を啜る。突然の来客にも堂々対応(来た試しはない)。リラックスするために部屋着を着る、という意見もある。しかし、リラックスとは心の持ちようであり、ウェアに求めるものではない。他人がリラックスウェアと定義したものは朽ちていくが、自分だけのリラックスコードを持っておけばカビの繁殖は抑えられる。

何が起こっているのか整理したい。スウェットを買ったその瞬間、クローゼットの中身はスウェットかそれ以外で分断されることになる。最初は家でゴロゴロすると決めた日だけ。それがそのうち在宅ワークの日、近所のスーパーに行く時、スウエットの活躍の範囲が広がっていく。スタバもスウェットでいっちゃおっかな、となる。スウェットの快適さはいうまでもないし、特に最近はその気の抜け方がかっこいいという風潮もあるので、スウェットが1軍のポジションをキープするようになる。そのスウェットに相性のいいアイテムを買い始める。目と体が「ゆるさ」に慣れてくる。「キメるのってダサい」の思考になって、これまで1軍だったシャツやジャケットは、日の目をみなくなる。これが個人的「飽き」のメカニズムであるような気がしている。

私も過去に、がんばりすぎてないほうがいいよね、とスウェットやその他のイージーアイテムを好んで買っていた時もあったが、一つの例外もなく、それらは今手元に残っていない。今年に入ってから休日は、お気に入りにのニットを着ている。これが今のリラックスコード。これを着て、トマトソースパスタも作るし、洗車もやる。最高に気持ちがいい。汚れたら洗えばいいのだ。きちんと過ごした時間は、飽きではなく愛着になる。カビではなく熟成しているのだ。

これまでイージーなファッションと洗練されたファッションの間で翻弄され続けてきたが、気負わず着る、という選択をすれば、ジャケットやスラックスも部屋着になる。そう思えば、クローゼットにスウェットが入り込む余地などない。だからこれは、スウェットとの決別宣言。あるいは戦略的スウェット着用宣言。

飽きの話を始めたはずなのに、違う話になってしまった。

 

*スウェットは現代社会では市民権を得ており、スウェットが一張羅という人もいると思う。ここでのスウェットというのは部屋着、リラックスウェアを象徴する一般名称だと捉えてください。ヨソイキの最高にかっこいいスウェット生地の服を見つけたときは躊躇なく買うと思います。