COMOLIのブラックコットンニット

 

この春1番気温が高くなった日、Tシャツを着ようと手を伸ばしたとき、その手前にあったニットが目についた。手に入れたばかりのコットンニット。まだ試着しかしてなかった。ニットという属性と、その肌触りの柔らかさから、なんとなく着るタイミングを逃したような気になっていたのだが、外気温が高くなれば比例して室内の気温が低くなる職場の特性を思い出して、むしろそれは今日だろうと思って、パジャマのシャツを脱いだばかりの素肌に被る。心地の良いざらつきを感じる。その日、カリフォルニアの太陽が容赦無く露出した手の甲や、首筋を焼いたが、荒い編み地が日光を中和し、分解し、その下の素肌には純粋な春の日差しのみが届いた。

コットンニットといえば、ハイゲージで、薄手のものをイメージする。大学の若手教員が、トレンチコートの下に好んで着るイメージ。これは太い糸で、緩く編まれているのでそこそこ厚みがある。リブはあってないかのように緩く、重力に逆らってそこに止まることはない。ウエストの高い位置で裾を止めれるという理由でタイトなリブが好きだが、このリブはただの飾りなので、それが丈の計算に折り込まれている。それがコットンという生地であること以上に、気温が高い時期のニットとしての雰囲気を醸し出す。

 

異論は当然認めるが、これは素肌に着るべきニットだ、と思う。何故だか自分でもわからないが、一般的にはインナーを着るだろうものの下に、最近はインナーを省略し、素肌に直接着る、ということにハマっている。外資系企業で長く働き、欧米文化にかぶれていた元上司が、シャツの下にはインナーなど不要と言って、夏汗をかいた時などは乳首をこれでもかというくらい透けさせていた記憶がある。その元上司のせいではないことは確かだが、吸汗以外に、インナーの果たす役割とはなんなのか、外から見えないのなら不要じゃないか、旅行の時荷物も少なくなるし、とかある日考えてしまったせいかもしれない。ともかく、素肌に着てみると、着心地の良し悪しというのが明確に感じられる。

インナーを着るか否か、というのは、どのように見えるか、というよりも着心地がどうかという問題であって、着た時の気持ちよさそれ一点のみで判断されるべきと思っているのだが、これはその中でもとびきり満足度が高い。見た目という点でも、これは厚みの割に意外とダイナミックに体の線を拾うのだが、特に肩が当たる部分、素肌が透けて見え、ゴツゴツとした骨の印象を与えるのに不思議といやらしく見えない。そういうスペックでは語られない良さみたいなものも魅力のひとつ。なお、逆に見た目何ら問題がなくてもインナーを着るべきだと感じる服も存在する。例えば、カシミヤなどは確かに肌触りはいいのだが、着心地という点では個人的にはあまり好きではなく、素肌に直接着ようとは思わない。もしかして背中や胸というのは皮膚が薄いのだろうか、身体の他の部分に比べてより敏感に心地の良さをジャッジしている気がする。

 

私がもし絵を生業にしていたら、キャンバスに向かう時これを着ただろう。あるいは、日々タフなミッションをこなすセールスマンであったなら、貴重な休日には鎧(ジャケット)を脱いで、畦編みに身を委ねるだろう。どちらでもない現実の私は、なんでもない水曜日にこのニットを手に取り、週の折り返し地点にいることをただ認識する。