COMOLIのブラックコットンニット

 

この春1番気温が高くなった日、Tシャツを着ようと手を伸ばしたとき、その手前にあったニットが目についた。手に入れたばかりのコットンニット。まだ試着しかしてなかった。ニットという属性と、その肌触りの柔らかさから、なんとなく着るタイミングを逃したような気になっていたのだが、外気温が高くなれば比例して室内の気温が低くなる職場の特性を思い出して、むしろそれは今日だろうと思って、パジャマのシャツを脱いだばかりの素肌に被る。心地の良いざらつきを感じる。その日、カリフォルニアの太陽が容赦無く露出した手の甲や、首筋を焼いたが、荒い編み地が日光を中和し、分解し、その下の素肌には純粋な春の日差しのみが届いた。

コットンニットといえば、ハイゲージで、薄手のものをイメージする。大学の若手教員が、トレンチコートの下に好んで着るイメージ。これは太い糸で、緩く編まれているのでそこそこ厚みがある。リブはあってないかのように緩く、重力に逆らってそこに止まることはない。ウエストの高い位置で裾を止めれるという理由でタイトなリブが好きだが、このリブはただの飾りなので、それが丈の計算に折り込まれている。それがコットンという生地であること以上に、気温が高い時期のニットとしての雰囲気を醸し出す。

 

異論は当然認めるが、これは素肌に着るべきニットだ、と思う。何故だか自分でもわからないが、一般的にはインナーを着るだろうものの下に、最近はインナーを省略し、素肌に直接着る、ということにハマっている。外資系企業で長く働き、欧米文化にかぶれていた元上司が、シャツの下にはインナーなど不要と言って、夏汗をかいた時などは乳首をこれでもかというくらい透けさせていた記憶がある。その元上司のせいではないことは確かだが、吸汗以外に、インナーの果たす役割とはなんなのか、外から見えないのなら不要じゃないか、旅行の時荷物も少なくなるし、とかある日考えてしまったせいかもしれない。ともかく、素肌に着てみると、着心地の良し悪しというのが明確に感じられる。

インナーを着るか否か、というのは、どのように見えるか、というよりも着心地がどうかという問題であって、着た時の気持ちよさそれ一点のみで判断されるべきと思っているのだが、これはその中でもとびきり満足度が高い。見た目という点でも、これは厚みの割に意外とダイナミックに体の線を拾うのだが、特に肩が当たる部分、素肌が透けて見え、ゴツゴツとした骨の印象を与えるのに不思議といやらしく見えない。そういうスペックでは語られない良さみたいなものも魅力のひとつ。なお、逆に見た目何ら問題がなくてもインナーを着るべきだと感じる服も存在する。例えば、カシミヤなどは確かに肌触りはいいのだが、着心地という点では個人的にはあまり好きではなく、素肌に直接着ようとは思わない。もしかして背中や胸というのは皮膚が薄いのだろうか、身体の他の部分に比べてより敏感に心地の良さをジャッジしている気がする。

 

私がもし絵を生業にしていたら、キャンバスに向かう時これを着ただろう。あるいは、日々タフなミッションをこなすセールスマンであったなら、貴重な休日には鎧(ジャケット)を脱いで、畦編みに身を委ねるだろう。どちらでもない現実の私は、なんでもない水曜日にこのニットを手に取り、週の折り返し地点にいることをただ認識する。

COMOLIのリネンWクロスジップブルゾン

 

先日、ポーラテックフリースを着て家事をしていたらヒートアップしたので、薄手のスポーツナイロンジャケットに着替えた。しかし体にこもった熱は、ナイロンに阻まれて外には逃げていかなくて、化学繊維特有の肌にまとわりつくような不快感は、家事の合間の休憩のために椅子に腰掛けたあとも続いた。それでリネンのブルゾンに着替えたら一気に快適になった。

コモリの服にはずっと苦手意識があった。気にはなっていたものの意識的に買わないようにしていた。シンプルなのに強いというか、コモリを着たらコモリにしかならないというか、自分の側に持ってくるのが難しいだろうと思っていた。よっぽど下手なことをしなければ大抵の人、若者でも老人でも、男でも女でも、似合うファッションが成立するのだろうが、そういう種類のものを私は求めていなかった。コモリのフォロワーが一気に増え、コモリのルックからそのまま抜け出したようなファッションをする人が増えた。それは作り手にも波及し、どう考えてもコモリを意識しているだろうというブランドは今や1つや2つではない。こういったことも私をコモリから遠ざけてきた。

さまざまな事情から、以前は一切利用しなかった通販を利用することが増えた。これまでフィーリングで購入してきたものも、画面を前にするとあれこれと悩む。例えば、「似たようなもの、持ってるしな」という理性が購買衝動を抑え込もうとする。結果としてうまくいくこともあれば、うまくいかないこともあった。しかしうまくいかなかったこと、つまり失敗したと一度は思った買い物が、時を経てのちに妙に自分の気に入ってくる現象が起こることに気がつく。だとすれば、フィーリングが選ばないものをあえて選ぶことによって人為的にその現象を発現させることができるのではないか?この一連の行動を私は東浩紀氏の表現を拝借して「積極的誤配」と呼んでいて、それについてはいつか整理してみたいと思っているのだがともかく、積極的誤配の第1例として選ばれたのが、このブルゾンだった。

このリネンで作られたブルゾンのことを、ブルゾンのツラをしたシャツなんだと、誰かが言っていた。リネンは気温が高いときに着る素材だというイメージを持っているのだが、どういうわけかこのアイテムは真冬でも違和感なく着られる気がしている。一方で、真夏の室内、エアコンがガンガンかかった室内における羽織ものとしても機能する。1年中着ていられるアイテム、という意味で、実質的なシャツであるという表現は的を射ていると言える。

昨年の11月にメキシコを旅行した時も、Tシャツとデニムに、このブルゾンというスタイルだった。朝出かける時は肌寒いからブルゾンを着ていき、日中暑くなってきたら脱いで、腰に巻きつけておく。あるいは夜、路上でバンド演奏を楽しんだ時は、ポケッタブルのダウンベストを内側に忍ばせ暖をとる。シワが実によく似合う服だから、機内でも気兼ねなく着れる。よくセレクトショップなどで、コモリはワンサイズあげて着ることを薦めているのを目にするが、これを個人的に解釈すると、ワンサイズアップすることで中に別のブルゾンや厚手のベストなどをレイヤードしても着膨れせずに着られる実用性がまずあり、それを実現させているのがオーバー目に着ても成立する美しいシルエット、ということだと思っている。

ルックのように限りなくシンプルに着る、という引力に抗いつつ、いつもの自分のファッションに落とし込む作業が楽しい。これは入門ドリルとしては最適のアイテムだったのではないかと思う。この一着を機に、コモリ沼に少しずつ足を踏み入れていくことになるのだが、それはまた別の話。

いつものユニクロのオックスに羽織りものとして

 

インサレーション入りのダウンベストを着ても着膨れしない

 

当然ジップをあげてもいい。ririジップはもはやアクセサリー。




 

もうスウェットなんて着ない

2024年もはや1ヶ月が終わろうとしている。抱負というにはたいそうだが、今年はスウェットと呼ばれるものを着ないことにしている。たとえ家だろうと、寝る時だろうとスウェットは着ない。より正確に言えば、「部屋着としてのスウェットを着ない」ということになる。

かれこれ四半世紀、「飽き」と戦っているような気がする。思い起こせば部活も3ヶ月以上続かなかったし、趣味をもとめて購入した道具は、ほとんど新品のまま残っている。部屋中に読了しないままひっくり返っている本がいくつもある。逆説的だが、なにかマ新しいことをやる、ということだけは飽きずに続けている。

モノとの付き合いにおいて、この飽きというのはより顕著にあらわれる。もちろん飽きるからこそ楽しい側面もある(飽きないと次のものを買えないからね)。好きな音楽を聴き過ぎて飽きる、ということは起こりうるが、モノの場合はその逆で、使わないことで飽きてしまう、というのが個人的な意見である。つまり飽きないためには、いかに定期的な接触を続けていけるかが鍵となる。この定期的な接触を妨害するのが、「部屋着」の存在である。

部屋着は危険である。部屋着というのは、食品で言えばカビのようなものだ。冷蔵庫の隅にある、使いきれなかった食材。あと1日くらい保つだろうという油断。翌日冷蔵庫を開けた時、その食材を白いカビが覆っている。これとおんなじことがクローゼットの中でも起こっている。今日は特に予定はない。行くとしても近所のスーパーマーケットくらいだ。簡単に部屋の掃除をして、あとはネトフリを見るんだ。スウェットのセットアップでカウチポテト。最高じゃないか!いや、これはカビの繁殖である。これからの私は、これを断固拒絶したい。たとえ部屋でネトフリに没入するときも、アルパカのニットにホワイトデニムを合わせ、紅茶を啜る。突然の来客にも堂々対応(来た試しはない)。リラックスするために部屋着を着る、という意見もある。しかし、リラックスとは心の持ちようであり、ウェアに求めるものではない。他人がリラックスウェアと定義したものは朽ちていくが、自分だけのリラックスコードを持っておけばカビの繁殖は抑えられる。

何が起こっているのか整理したい。スウェットを買ったその瞬間、クローゼットの中身はスウェットかそれ以外で分断されることになる。最初は家でゴロゴロすると決めた日だけ。それがそのうち在宅ワークの日、近所のスーパーに行く時、スウエットの活躍の範囲が広がっていく。スタバもスウェットでいっちゃおっかな、となる。スウェットの快適さはいうまでもないし、特に最近はその気の抜け方がかっこいいという風潮もあるので、スウェットが1軍のポジションをキープするようになる。そのスウェットに相性のいいアイテムを買い始める。目と体が「ゆるさ」に慣れてくる。「キメるのってダサい」の思考になって、これまで1軍だったシャツやジャケットは、日の目をみなくなる。これが個人的「飽き」のメカニズムであるような気がしている。

私も過去に、がんばりすぎてないほうがいいよね、とスウェットやその他のイージーアイテムを好んで買っていた時もあったが、一つの例外もなく、それらは今手元に残っていない。今年に入ってから休日は、お気に入りにのニットを着ている。これが今のリラックスコード。これを着て、トマトソースパスタも作るし、洗車もやる。最高に気持ちがいい。汚れたら洗えばいいのだ。きちんと過ごした時間は、飽きではなく愛着になる。カビではなく熟成しているのだ。

これまでイージーなファッションと洗練されたファッションの間で翻弄され続けてきたが、気負わず着る、という選択をすれば、ジャケットやスラックスも部屋着になる。そう思えば、クローゼットにスウェットが入り込む余地などない。だからこれは、スウェットとの決別宣言。あるいは戦略的スウェット着用宣言。

飽きの話を始めたはずなのに、違う話になってしまった。

 

*スウェットは現代社会では市民権を得ており、スウェットが一張羅という人もいると思う。ここでのスウェットというのは部屋着、リラックスウェアを象徴する一般名称だと捉えてください。ヨソイキの最高にかっこいいスウェット生地の服を見つけたときは躊躇なく買うと思います。

 

 

靴が見つからないのvol.03

タイトルに反して、靴が見つかった、という話。

鏡の前で靴を合わせる時間がない朝も(我が家に足元まで映せる鏡はないが)、どんなコーディネートにもハマる白いシューズを下駄箱に置いておけば、1日の悩みの1/10くらいは減らせると思っている。しっくりくるものを探していた。そんなに熱心に探していたわけではないが、おそらく見つかったと思っている。NOVESTAのITOH。

vol.01から、対象としているシューズの条件とか好みを書いてみたわけだが、結局論理的にする買い物は性に合わないようだ。かといってこの靴は通販で買ったので、フィーリングでハマったというわけでもない。コットンで(レザー)、どこでも手に入れられ(ほとんど売ってるとこ見たことない)、価格も手頃(3万越え)という、これまで挙げた条件には、かろうじて白いこと以外一致しない。だが、届いたものを履いた瞬間に、求めていたものと限りなく近いことを感じた。New Balanceの経験から、あまりぼてっとしたタイプの靴が好みではないことは薄々感じていたが、この靴でそれが確信に変わる。コンバースオールスターとか、このNOVESTAのITOHみたいに、トウに向かってすらっと伸びるスニーカーが好きらしい。実際私自身が好き、というよりも私が履くパンツが、そういう靴を好むのだ。

 

汚い靴と、汚いベランダ

2023年末をもって私的定番を退任することとなった現行(2022年春購入)のスタンスミスと比べてみたい。まず素材。スタンスミスがサスティナブルレザーなのに対し、ITOHは牛皮。人工か天然か、というのはもともとあまり興味はなかったのだが、1年半履いてみて人工レザーを気に入らなかったのは、履きジワがかっこよく入らないところで、まあこれはアジが出ないと言い換えてもいい。ITOHはまだ2週間ほどしか履いてないが、それでもアジの片鱗を見せている。人工レザーは汚れも気になる。拭いたら落ちるのだが、私は滅多にスニーカーの手入れなどしないので、多少の汚れは受け入れるくらいの度量は、靴側にも持っていて欲しいところ。

 

素材に加えて、ワイズの細さが、ITOHにシュッとした印象を与えている。スタンスミスも他人が履いている時は割りとシュッとして見えたのだが、こうして比べてみると完全にぽっちゃり体型である。アウトソールを測ってみると、最も横幅の広い親指の付け根の部分で5mm、最も狭いかかとの部分は1cmもの差がある。ITOHのサイズはUKサイズで9。スタンスミスは8 1/2。割と余裕がある感じがするスタンスミスに対し、ITOHの履き心地はややタイト。私の場合、ほとんど年中分厚いソックスを履いているので、もうワンサイズあげてもいいかもしれない。

 

ソールはどちらもラバーだが、インナーソールの違いのせいか、履き心地もITOHの方が良い(ITOHはインナーソールも革)。これは好みだと思うが、クッション性とか、別にいらないのだ。布団も靴も、硬い心地のほうが個人的には良い。

 

なお、念のためにネットでチェックしたら、STAN SMITH LUXという名前で、レザー版スタンスミスも復活しているよう。アディダス公式の商品コメント欄は、レザースミス復活の祝福で溢れかえっている(合皮になって売上落ちたのだろうか)。だがもう私には不要である。ITOHがあるので。

 

そういえば最近いろんなところで、後継者不足でビジネスをたたむかもしれない、みたいな噂を耳にする。真意は「だから今買った方がいいですよ」というセールストークだと信じたいが、2022年末で事業終了したホワイトハウスコックスのように(結局日本の会社が商標権を買い取ったようだが)、いつなにがおこるかわからない。今年1年じっくり履いて確信が得られたら、ストックをそろえておいてもいいかもしれない。

クリスマスがやってきた!

先週末いくつかの現実的な用事のためにサンフランシスコに行った。ホリデーシーズンを控え、というか真っ只中で、街は完全に浮かれていた。ギフトバッグをさげてあるく人たち。サンタクロースのコスプレをした男女がそこらじゅうを歩き回っている。酔っ払った女は横断歩道でなにかを叫んでいた。いつもは空いている料理屋も、この日は入るのに20分ほど待たなければならなかった。彼らにとって、たぶん正月はアディショナルタイムのようなもので、ホリデーは基本的にクリスマスに終わりという感覚らしいから、12月20日あたりからそわそわする日本人と、時期はずれているものの基本的には同じである。テレビのニュースでは、ホリデーシーズンのパーティでメンタルヘルスになるアメリカ人が増えていると言っていた。街ゆく人は心の底から楽しんでいるように見えたが、なにかを忘れるために酔っ払っているのかもしれない。

さて、クリスマスは私にとってそんなに親しみのあるイベントではないが、職場で簡単な食事会をやるので、アグリーセーターが欲しかった。昨年までそんなものの存在も知らなかったが、クリスマスにはそれぞれのアグリーセーターに身を包みパーティに身を興じるらしい。そういえば、サンフランシスコでも赤や緑のセーターを着ている人たちを目にした。日本人はすぐに外国の文化をソフィスティケートする傾向にあるし、どこぞのファッション雑誌はおしゃれなアグリー風セーター(5万円)を提案しているのではないかと想像するが、アグリーセーターは文字通り、本当にダサい。今年こそは、と正統なアグリーなセーターを求めたものの、しかしターゲットとかで売っているような化学繊維で編まれたダルダルのセーターを、なかなか買う気が起きないのである。古着に一縷の望みをかけたが、時間がなく断念した。

今年も普段着でクリスマスを迎える物足りなさを感じながら、年末帰国時のおみやげとしてTシャツを買うためにIn-N-Outのオンラインストアを開くと、なんとオリジナルのアグリーセーターがある。当然ハンバーガー柄である。値段にして約1万円、1年に1回の使用と考えるとコスパは確実に最低レベル。クオリティに一抹の不安は感じたが、アグリーセーターにクオリティなど求めるのが愚かというものである。早い、うまい、安いが合言葉の同店だけに、即日発送。無事にクリスマスまでに手に入れることができた。

うん。まあ悪くないと思う。ダサいことはダサい。アメリカでしか買えない、みたいな所有欲も満たしてくれる。そういえば私が買ったのは2020年モデルだが、他には今年の最新モデルが売られているのみで、2021年、2022年のものはなかった。そもそも販売がなかったのか、あったが売り切れてしまったのか。後者だとすると、ダサいセーターのなかでも一際ダサかったのか、アグリーセーターとしてはイケてる方だから逆に売れ残ったのか。気になるところではあるが、今年のクリスマスは寂しい思いをしなくても良さそうだ。

マニアナに向かって

ピピラ像前より

2023.11.23-11.26

グアナファトは、メキシコシティから北に1時間飛んだところにある。現地に暮らす知人を訪ねる旅行だったので、事前の下調べはほとんどやらなかった。メキシコの京都と呼ばれているらしい。ところでなんとかの京都という表現ってなんかの役に立つのだろうか?古い街並みなのだろうことは想像がついたが、それを表現したいのなら古都といえばいいのに。「ポーランドの京都」クラクフに行った時にも感じたが、京都と聞かされるより、中世の街並みが残る、とか言ってもらったほうがよっぽど正しくイメージできる。レオン空港からグアナファト市に向かう車の中で、サンノゼ市のハイウェイからみる景色とほとんど変わらない風景を眺めながらいつの間にか眠ってしまったが、目を覚ますとカラフルな街並みが広がっていた。やはり京都という言葉からイメージした風景とは違っていた、かろうじて盆地ではあったけど。治水のために地下に張り巡らされた、まるでアトラクションのようなトンネルを通って市内中心地に向かっていく。道はかなり狭く、ほとんどが一方通行のようで、方向音痴の私はこの街では暮らして行けそうにない。

グアナファト市自体は長野県松本市と同じくらいの広さなので、日本人の感覚からいえば結構大きい都市だが、ピピラ像の前から見渡せる範囲の街並みがグアナファトの中心地だとすると、観光客的観点からすればかなりコンパクトな街ということになる。何も知らない状態で街のもっとも有名なこの風景をみるとただのカラフルな建物の印象しか残らないが、一度街を歩いてある程度の情報を頭に入れてからみると、あああの建物が大学だなとか、そこの広場を通ってきたな、だとするとあれがさっき見たホテルだな、というのがすぐわかる。そして街の中で自分がいる場所がわからなくなったら、ピピラ像を探せばいい。彼との距離がどのくらいか、また彼の顔がどのような角度で見えるか、でおおよそ自分が街のどの地点にいるのかを知ることができる。歩き回ることが楽しい街だ。あるいは歩き回ることのできる街が、観光地としては楽しい街の条件なのかもしれない。城下町はみんな好きだし、アウトレットモールのような擬似的な街に人が集まるのは、買い物それ自体が目的ということ以上に、自分の足によるストップアンドゴーに楽しみを感じるからじゃないかと思っている・・・そういうわけで、久しぶりに街を歩いてフィルムカメラで写真を撮り、雑貨屋を見て回り、疲れたらカフェで休憩したりした。朝は遅くまでぐっすり眠り、夜は友人の部屋で、屋台で買ったタコスを食べた。特にハイライトのような瞬間はない。しかし常に充実感のようなものがあり、心地よい疲労があった。ガイドブックに印をつけながら歩く旅行も楽しいが、気の向くままにほっつき歩くことにはまた別の楽しさがある。

治安のいい街のようで、かなり遅くまで(21時とか)子供たちが遊ぶ声が聞こえてきた。彼らは石畳の路上でボールを蹴っていたが、ボールを蹴る子供をみたのはずいぶん久しぶりな気がした。音楽隊が街を練り歩き、その周りに人が集まって一緒に歌う。子供がベランダから顔を出して覚えたての歌を披露する。大人たちはパーティ好きで、週末街中ではなんらかのイベントが行われるという。その週末はワインフェスだった。道路に椅子を並べ、ワインを飲みながら音楽を鑑賞する。そして歩いて帰宅していく。街の中心と生活圏内とが近いからこその風景だった。

旅行から帰ってしばらくは、たいてい疲れてなにもしたくないという気になるのだが、今回はその反対で、ちょっと馬鹿っぽい言葉で言うと、元気がみなぎってきたのだった。興味をもちながらこれまで手をつけられていなかった新しいことをしてみたいと考えたり、長らく中断していたことを再開してみようかという気持ちになった。そしてなにより、今また旅行に行きたいと思っている。私にとって今回1番の収穫は、そういう種類の旅行もあるのだと分かったことだった。

 

食事

メキシコの人柄は日本人に親しみやすいもののように感じたが、同じことは食事についても言えるような気がする。屋台で買ったタコスやケサディージャ、ホームメイドのミチェラダ。ダムのほとりで買ってもらった、Guacamayasという豚の皮を揚げてチップス状にしたものにかなりハマった(Guacamayasというのはインコの名前。かなり限定された地域のローカルフードらしく、隣町でもこの食べ物のことを知らない人は、インコを揚げてるのかとギョッとすると聞いた)。醤油とサルサの味が似ているとは言わないが、塩と脂濃さの加減が日本人の味覚と近いのではないか。

 

服装

この時期のメキシコは、Tシャツにブルゾン、ジーパンという格好でちょうど良かった。朝晩で寒暖差があるので、脱ぎ着できるほうがいい。旅行の時ポーチを持ったり、変にポケットがたくさんついた服を着がちだが、結局どこに何をしまったかわからなくなる。ジーパンのポケットは上向きで物が落ちる心配も少ないし、そこにケータイとパスポート、フィルムカメラだけ入れて行動するのは気持ちが良かった。

 

おみやげ

日本贔屓と思われる(店のあちこちに広島カープの写真やカレンダーが貼ってあった。日本語の注意書きもあり、多分日本人観光客もよく来るのだろう)店主のいる店で、湯呑みと、飲む習慣はないがテキーラボトルを買った。それに帰りの空港でテキーラ(KREVAがGQの企画で紹介してたやつ)も。

魔法のかばん?

ベスト・エコバッグ・エバー

ほとんどの人に行きつけの床屋があるように、ほとんどの人に行きつけのスーパーがある。僕の場合は、Whole Foods Market(以下ホールフーズ)がそれだ。ホールフーズが好きなのにはいくつか理由があるが、一番は家から徒歩で行けるところだ。僕にとっての行きつけたりえるスーパーは、徒歩圏内のスーパーである。食料品を買うのに車とか、電車に乗っていくなんてわずらわしいことは極力避けたい。そりゃ時には遠出して韓国系スーパーにかつおぶしや納豆を買いに行ったりするが、たいていの料理ならホールフーズで対応できる。DAIKONやTOFUだって売っているのだ。

歩いて買い物に行く場合、買い物袋は重要だ。ホールフーズのレジでは有料の紙袋を買えるが、少額とはいえ毎週買うのはバカらしいし、自宅でゴミをまとめたりするのに役立つビニール袋と違って紙袋は再活用しづらい。ちなみにアメリカ人、というかアメリカに住んでいる人は、割と平気で毎回新しい紙袋を買う人が多く、日本人のエコバッグ普及率なんか知らないが、あんまりエコとかそういうことは考えてなさそうだ。合理的な彼らは、あるいはエコバッグを使うよりも、毎回紙袋を使うほうが環境にとって負担が少ないと考えているのかもしれない。EVと従来の自動車の二酸化炭素排出量は、製造時と走行時をトータルで考えれば大差なし、みたいな説と一緒で、実際のところどうなのかは知らないが。

はなしが脱線したが、どうせエコバッグを使うのなら、使い勝手のよいエコバッグを使いたい。柄がかわいいんだとか、小さく畳めるんだとか、そんなことはどうでも良い。こういったことは使っているうちに気にならなくなってくるし、見た目を買う動機にすると、2個目、3個目のエコバッグを買うというエセエコ野郎になってしまう(経験談)。でも最高の使い勝手のエコバッグなら、そうはならない。必要に迫られて2個目を買う日が来ても、同じものが欲しくなるだろう。そして最高の使い勝手をホールフーズが実現した。

ホールフーズのデザインチームは、オリジナルショッピングバッグの作成にあたり、レジで顧客が買い物をする様子を徹底的に観察した。顧客たちは、半数が数セントを支払い紙製のショッピングバッグを購入し、残りの半数は様々なショッピングバッグを組み合わせて使っていることに気がついた。紙のショッピングバッグの大きさは十分だが、水のボトルなど重量のあるものを購入した場合、2重にする必要があった。また多くの顧客が持参したショッピングバッグは自立しないタイプのもので、その不安定さゆえに実際の容量ほど多くのものを入れられないということを発見た。彼らはアメリカに流通するあらゆる商品を調べ、そのパッケージの大きさを測定し、自社の顧客の一回の購入量を分析することで、最適なサイズ-60cm*100cm*120cm-のショッピングバッグを作った。データの収集・分析には、2017年にAmazonの傘下に入ったことも寄与している・・・

というのは僕の空想だが、そんなストーリーがありそうなくらい、よくできたサイズ感なのである。縦横の面積は、一般的に流通している冷凍ピザのサイズと一致するし、マチには18個入りの卵のパッケージがピタリと収まる。あとは残ったスペースに野菜や缶詰を無駄なく詰め込む。ポケッタブル仕様でないぶん丈夫なので、重いものを入れても問題ない。車のトランクで揺られても、抜群のバランス感覚で立ち続けてくれる。

魔法は言い過ぎだけど、エコバッグ界のRIMOWAの称号を授けたい。