読書ログvol.01 セルフビルドの世界

2010年前後に、個人的なDIYブームがあった。実家を出て地方の大学に行く時、仕送りの金額から少しでも手残りを増やそうと、風呂共同のボロアパートの一室を借りることにした。当番制の風呂掃除が面倒になり、1年ちょっとでそこを出て、今度は風呂付きの、もう少しマシなアパートを借りたのだが、そこは大学からかなり離れた、ほとんど山のふもとにあった。これがこの後少しばかり問題を引き起こすのだが、いいこともあった。それは、周りに住人が少なかったことである。私が借りた部屋は、一人暮らし用の1Kだったが、隣の部屋は、家族が暮らすことを想定した広い部屋で、長い間借り手がついていなかった。通学に時間がかかる不便な場所に、当然学生は住んでおらず、他の部屋の住人も社会人ばかりだったようだから、講義のない日の昼間に家にいるときなどは、本当に静かだった。この新しい城には、最初何もなかった。風呂共同アパートには、クオリティはともかく、生活に必要なものは全て揃っていた。自分で用意したものは炊飯器くらいだったので、冷蔵庫も、洗濯機も、服や雑貨を入れる棚なんかも全て一から用意することになり、ここで初めてインテリア、もしくは家具というものに興味を持つことになった。当時の私の主たる情報源は雑誌だったが、学生ゆえの金の無さもあって、名作家具とかデザイナーズインテリアに関する記事よりも、名もなき個人の、手垢まみれの「お部屋紹介」風の特集に興味を惹かれることが多かった。すぐに私も真似をして、スケートボードデッキでサイドテーブルを作ったり、カラーボックスでテレビボードを作ったりした。壁の薄い学生アパートなら、電動ドリルの音や釘を打つ音に苦情も入っただろうが、隣人のいない環境が幸いした。DIYされたものたちは、大学卒業と同時に全て処分され、私は既製品を好むようになった。

 

その後しばらくDIYのことは忘れていたが、2017年に東京近代美術館(「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」展を見に行った)のスーベニアショップで、この「セルフビルドの世界」に出会う。セルフビルドとは少量多品種型生活の一つであり、日々の生活の中の自己表現だといっている。DIYやMYOGなどの「自分でやってみる」という行為を含む、思想のようなものだと理解している。私たちが普段、工夫と呼ぶもののいくつかは、セルフビルドなのかもしれない。筆者はアポロ13号の生還をセルフビルドの象徴的出来事と呼び、世界的建築家の書斎的セルフビルド(もしくはセルフビルド的書斎)や、文字通りの0円ハウスを作り上げた猛者の取材記録を書いた。建築家の文章は難解なイメージがつきまとうが、この本は非常にわかりやすく、また筆者の自前の言葉が新鮮な印象を与えている。いうまでもなく、読了後第2次DIYブームが到来する。

 

さて、2年前に新居に移って以降ここまで、3回目のDIYブームが続いている。パンデミックで手頃な家具が手に入らなかったので、下駄箱、本棚、テレビボードなどを製作し、今後はキッチンに取り組みたいと思っている。新しいモノが欲しいわけではないのだが、セルフビルドの視点から部屋を眺めてみると、まだまだ改良の余地があるのだ。

改めてこの本を読んでみると、開放系技術という考えが紹介されている。意味は、「自分、あるいは個人でできることをなるべく拡げていきましょう」。

なんとなく、今私がやりたいと感じていることは、ここにあるのではないかと思った。つまり、そこに特別な、例えば、金を節約するためとか、SNSでイイねをもらうといった目的はない。自己表現と呼ぶのは小っ恥ずかしいが、自分でやってみることは手段であり、目的でもある。

 

世間はインフレまっただ中、生きづらさが叫ばれるが、金はなくても家は建つと言い切るこの本がなにかの参考になるかもしれない。